Old fashioned love ジャズ初心者でも簡単にわかる戦前音楽解説シリーズ。

こんにちは。戦前ジャズの名曲[Old fashioned love]をジャズ初心者でも簡単にわかるよう解説するコラムです。

時代は今からおよそ100年前、場所はアメリカのニューヨークです。

1923年、当時のニューヨークでは[Charleston]というダンスナンバーが大流行し、”ニューヨークジャズピアノの王”と呼ばれたその男の名前は”ジェイムス・プライム・ジョンソン”と言います。

そしてジョンソンよりも10年以上も早い激動のニューヨークで、ミュージカルを中心に活躍していた作詞家に”セシル・マック”がいました。1923年、ミュージカル”Runnin’ wild”のために二人が共作し誕生したのが本曲です。

初期の録音はエオリアンカンパニーから、1923年にRunnin’ wild(エオリアンco.)、1929年にはジョンソン名義(デッカ盤)が残されています。

今回の解説ではジェイムズ・P・ジョンソンとセシル・マックについて掘り下げていきます。

1894年2月 ジェームズ・プライスジョンソンはニュージャージー州で誕生。ピアニストとしては、1800年代後半に隆盛を極めた”ラグタイムピアノ”というスタイルを”ストライドピアノ”というスタイルへと進化させたパイオニアでした。

同時期に活躍した火の玉ピアニスト”ジェリー・ロール・モートン”と並び、ジャズがレコーディングされ始めた最初期の重要なジャズメンとして知られています。

ジョンソンはジャズメンとして、カウントベイシー、デュークエリントン、アートテイタムに大きな影響を与えました。

後にジャズを大衆音楽たらしめた最強のヒットメーカー”トーマス・ファッツ・ウォーラー”の先生でもありました。私は彼の存在を『ジャズ界のオビワンケノビ』と呼んでいるんですが、

『デュークよ、フォースを使うのだ』

と言っていたかはわかりませんが、この当時でSWエピソード3くらいの存在感を放っていました。

さらにジョンソンはRoaring Twenties(邦題:狂騒の20年代)で先述の[Charleston]を含む多くのヒット曲を生み出し”ニューヨークのジャズピアニストの王”と呼ばれるまでになりました。

そのライトセイバー、じゃねぇやピアノのアイディアに注目されるあまり、彼のもうひとつの側面であるアメリカ大衆音楽や、ミュージカル、後進へ与えた多大な影響が隠れ勝ちだよね、ということを指して”見えざるピアニスト”という異名でも呼ばれています。

そんなジョンソンの若い頃、育った場所がニューヨーク市に近いことから、若い頃には既にバーやキャバレーミュージックから交響曲に至るまで、開放的なニューヨークでの音楽体験を通して才能を開花させました。なんかジョンソン一家の家族会議で

『よーし週末はみんなでニューヨークへでかけようか~』

なんて絵が浮かんでくるようでほっこりしたす。父は整備士、母はメイド業に従事していたといことでアメリカでの一般的な家庭だったことが想像されますが、多くのアフロアメリカのミュージシャンの少年時代としては環境に恵まれ、日曜には教会で合唱し、時間があれば音楽を独学で勉強していたそうです。

1908年、ジョンソン一家はニューヨーク市に引っ越します。この時14歳のジョンソンには絶対音感と優れたリズム感で、聞いた曲をピアノで弾くことができたらしいです。すくすくと”ジェダイの資質”じゃねえや”ピアニストの資質”に目覚めていくジョンソンは、スコット・ジョプリン(ジャズ界のヨーダ)やクラシック音楽に傾倒していたと言います。

このジョプリンのラグタイムやクラシック音楽の様式美と、アフロアメリカンのダンスによる開放的で躍動感あるリズムをハイブリッドできないか…後のストライドピアノに繋がる構想は、かなり早い段階から温めていたというから驚きです。

1914年、後に伴侶となる歌手の”リリー・メイライト”、ピアニストの”ウィリー・スミス”、”ユービー・ブレイク”、”ラッキー・ロバーツ”、作曲家の”ジョージ・ガーシュウィン”と良き友人やライバルを得て、音楽シーンにおける自分の立場を確実なものにしていきます。ジョンソンは[ピアノ・ロール]と呼ばれる自動演奏用の楽譜の録音に携わり、1917年から数年間に渡り、下積み時代を経験します。

遂にその下積みを経て、エセルウォーターズやベッシースミス伴奏者に抜擢されます。 エセル・ウォーターズは自伝の中で

『扁桃腺が腫れ落ちるまで歌いたくなる演奏だった。フォースと共にあれ。』

と語ったとされています。

ピアノロールの制作現場にいたことから、レコード制作へと変化していく業界に適応できたジョンソンは、1921年 作曲家として1自作曲 “Harlem Strut” “Keep Off the Grass”  “Carolina Shout” ” Worried and Lonesome Blues “を残します。

1923年にはジャズソロピアノのレコードに録音し、ドラムのようなビートを叩き出すジョンソンのピアノは同時代のピアニストや聴衆を驚かせたそうです。

その後、怒濤の変化を見せるニューヨークのジャズシーンから、ブロードウェイを中心とするミュージカルの作曲者としての地位を確立し交響曲やオペラも書く一方、新興産業である映画音楽も手がけました。

1955年11月 初期ジャズのピアニストとして王の座まで昇り詰め、時代の変化と自ら成長を続けた偉大な作曲家は61歳の生涯を終えました。

1873年11月 ジョンソンよりも20歳ほど年上のセシルマックは、アメリカバージニア州で誕生しました。

1890年代 勤勉なマックはペンシルベニア州のノーフォークミッションカレッジ、名門リンカーン大学に通い、卒業後は国勢調査の速記者としてニューヨークで暮らし始めました。完全に公務員まっしぐらな人生に、肩透かしをくらったような気もしますがこの頃に初の歌詞作品として[GoodMorning Carrie]を提供しました。

1905年5月 “Gotham Attucks Music Publishing Company]を設立。なんのこっちゃ?と思われますが、彼は作詞家業に専念する前にまず[史上初のアフロアメリカンの経営者が所有する音楽出版会社]を作ったのです。ものすごい意識の高さです。

少年の頃家の壁にワイヤーを張って鳴らして遊び、年頃になったら整髪剤を撫で付けた髪で女の子をナンパし、ギター一本、裸一貫でなーんの当てもコネもなく都会にやって来がちな根っからのミュージシャンという人種には永久に思いつかないであろう思考力と行動力です。

こうしてある時はマネージメント、ディレクター会社のシャチョさんとして、ある時はミュージカルの作詞家(と言っても共同製作が主だったそう)としてのキャリアをスタートさせます。

ニューヨークのショービズにこの人あり、といった感じでマックは不動の地位を築き
、70歳の彼の訃報を伝えるニューヨークの新聞には

『あのアーヴィングバーリンでさえ、この才能ある作家の作品を上回ることはできない。彼の曲はスティーブンフォスターの曲と並ぶアメリカの音楽そのものであり。通ダイムストアー(我々で言うところの100均ショップ)のカウンターからラジオ全盛の時代までの大衆音楽シーンを支えました』

以上、Old fashioned loveの解説を終わります。孤独のヒュードのYouTube動画もありますのでシュシュッとご覧ください。

井上大地

投稿者: Daichi Inoue 井上大地

Guitarist, Song writer

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Google フォト

Google アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト /  変更 )

%s と連携中

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。