Cotton fields ジャズ初心者でも簡単にわかる戦前音楽解説シリーズ。

こんにちは。アメリカフォークソングの名曲[Cotton fields]をジャズ初心者でも簡単にわかるように解説するコラムです。

時代は今からおよそ80年前、場所はアメリカ南部ルイジアナ州です。

1940年、この一筋縄ではいかないこの曲のオリジナル音源として、これまた一筋縄ではいかない経歴を持つ男が録音を残しました。その男の名は”Lead Belly”です。

著作権上は彼の物となっていますが、1800年代から歌われていた”民謡”であるという説もあります。第二次世界大戦が始まった年に、この曲が広く知られるようになったことは興味深いことです。

レッドベリーのレコードリリース後、現在に至るまで数えきれないミュージシャンが取り上げましたが、1970年”クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)”によるカバーがあまりにも有名です、CCRのバージョンは奇しくもベトナム戦争期に世界中へ広まったという共通点があります。駆け出しの頃のボブ・ディランもレッドベリーのレコードを聞いて

『すご…い…!5倍以上のエネルギーゲインがある…!』

と言ったそうですが、今なお人の心をとらえて止まない魅力を、レッド・ベリーについて深く掘り下げつつ、本曲の魅力に迫っていきましょう。

まず始めに歌の舞台となっている実在の地名”ルイジアナ”と”テクサカーナ”がどんな場所か見ていきましょう。こうして民謡などの古い歌歌は実在の地名や人名などの固有名詞も掘り下げることで、新たな発見があったりするのでオススメです。

地図アプリで”Texarkana”と検索し、ルイジアナ州の北部、テキサスとアーカンソー州の境目に跨がる都市が出てきます。どうやら、歌の舞台はこの辺りのようです。

『テクサーカナから10マイルあるルイジアナ』『ルイジアナを1マイルほど下ったテキサカーナ』と、様々なバージョンの歌詞が存在します。話し言葉として訳すと『テクサカーナ(都市の中心部)からルイジアナ(地方)方面へ少し下ったところ』

つまり場所は”アーカンソー州側のテクサカーナ、南東の町外れ付近”と解釈するのが自然なようです。実際に地図アプリを使って現在のテクサカーナの南東町外れを見学してみましたが

『はーぁ、ピアノもねぇ、バーもねぇ、おまわり毎日ぐーるぐる』

といった風景がどこまでも続いているような場所でした。こういった故郷系(あるのかそんなジャンル?)の歌詞で注意したいのは、主人公と故郷の距離感です。物理的、精神的と両極な視点で観察することをオススメします。

さらにメロディの節回しやリズムなど音楽の内容は山間部、平野部、沿岸部、都市、田舎など、文字通りバックグラウンドによって大きく変化します。

こういった切り口で楽曲を聞き直すのも、行ったつもりで北海道~北海道~的な風味で楽しめて、よいと思います。

そして音楽はやはり”人”が作り出すもの。それもおそろしいまでの”エゴ”をはらんでいます。それではこの曲を最初にレコードに残した男について掘り下げていきましょう。

1888年1月 “Huddie William Ledbetter”後に”Lead Belly”と呼ばれる元祖シンガーソングライターは、南部では比較的自由で、おおらかなルイジアナ州で誕生します。

[In The Pines][Goodnight Irene][Midnight  Special][Boll Weevil]などアメリカの、否、世界中のミュージシャンに影響を与え続ける楽曲を生み出しました。ブルース、ゴスペル、フォーク、

さらに力強いボーカルと卓越した楽器演奏も凄まじくピアノ、ハーモニカ、アコーディオン、マンドリン、12弦ギター、スティールギターをマスターしており、おそらく神様がほろ酔いで初期ステータス振りしたとしか考えられない、もはやバグぎりぎりな、いわゆるチートでした。

歌のテーマも女性、酒、刑務所生活、人種差別、カウボーイ、農業、船乗り、牛の放牧、ダンスナンバー、政治風刺、時事ネタと幅広く、もし現代で生きていたとしたらinstaやtiktokとかで映えがバズってYouTubeの登録者も1000万人くらいいたに違いないでしょう。秒でアカウントが凍結されがちな気もしますが。

レッドベリーはルイジアナ州ムーアリングスポート近くのプランテーション育ちで、彼の公式な生年月日を含む経歴は第二次世界大戦の徴兵登録の際に決定されました。
1949年12月 61歳で亡くなりましたが、本人にも誰にも本当の年齢は分からなかったと言われています。

幼少期にテキサス州ボウイ郡に定住し、ミュージシャンとしては珍しく”そして彼は音楽家を志した”などのエピソードがまったくないまま20歳になり、”Hudy Ledbetter”という女性と結婚しなんだか落ち着いてしまいます。

その結婚祝かは謎ですが、突然叔父からアコーディオンを譲り受け、ミュージシャンもええなぁと思い始めたところ、2人の子供に恵まれパパンになってしまいました。生活の足しになるかなーくらいのノリで、ギター演奏を副業として始めた彼に変化が表れます。

1903年頃、彼はルイジアナシュリープポートの悪名高い歓楽街である”セントポールズ・ボトムス”で演奏をしていました。酒場、売春宿、ダンスホールと家計の足しになるならとさまざまな音楽に影響を受け、独自のスタイルの音楽を開発し始めました。

レッドベリーは、いよいよ悪い意味でのミュージシャンとしての生活に取り憑かれてしまいました。1915年、裏街道をひた歩いくレッドベリーは拳銃を所持していた罪で刑務所へ入ることになります。この悪循環は1939年まで続き、さらにアメリカ大恐慌、聞こえてくる第二次世界大戦の足音が彼を襲いました。

しかし、囚人生活の中にあっても彼はミュージシャンとしての鋭さを失いませんでした。1933年、民俗学者のジョン・ローマックスとアラン親子は南部を旅しながらフォークソングの録音、情報の収集をしていました。刑務所を訪問した際、伝統的なプリズンソング[Midnight special]を歌うレッドベリーに感銘を受け、彼らはすぐさまアメリカ議会図書館のポータブルアルミニウム録音機を持参し刑務所を訪問し初の録音を敢行します。さらに翌年も刑務所を訪れ、何百曲ものレパートリーを録音しました。

同年8月1日、ローマックスはルイジアナ州知事に緊急の要請で提出した請願により、レッドベリーは減刑され釈放されました。この釈放劇には[Goodnight Irean]に関するなにやら暗い取引もあったそうですが、後年当局は否定する以下のような香ばしい文章をローマックに送りました。

『つーかー、やつのー、日々の行動?が変わったというかー、なんかもう良いやつになったっぽくね?的なノリでー、もともと釈放するつもりだったしー?べつに知事から言われたから釈放したわけじゃないんだからね!!』

出所してからレッドベリーは”歌で刑務所から出た男”として時の人となり、様々なイベントや取材に引っ張りだことなり、人生で初めて名声を得ることになりました。この時46歳、表街道を歩くミュージシャンとして生まれ変わりました。

1935年1月~3月にかけて3つのセッションで53テイクを録音しました。しかしレコード会社のARC都合で発売を渋られてしまい、6曲のみリリースとなりました。この6曲についてはARC傘下の複数のレーベルよりリリースという待遇にも関わらず、ヒットしませんでした。

売り上げが低迷した理由の1つに、レコード会社が”ブルースシンガー”として売り出してしまったことがわかっています。レッドベリーは、20年代ジャズ黄金期、30年代初頭のアーバンブルースの勃興期を刑務所で過ごしました。

大戦後にやってくるジャイブ、モダンブルース、ロックンロール、フォークリバイバル、ゴスペルソウルミュージックとその後に起きるアメリカ音楽のメインストリームを既に体現できる才能の持ち主にもかかわらず彼は人種の壁と時流に翻弄されました。

その事からレッドベリーは生活に苦しんだそうです。既に同時期の多くのパフォーマーはレコードセールスによるギャランティで収入を得ていましたが、彼はツアーを生業としていくことを決めました。

ローマックス親子の息子アランはレッドベリーに仕事を用意したり、半生を語るインタビューをしたりと世話を焼いていましたが、父親のジョンはレッドベリーとの仕事はこれ以上できないことを決め、レッドベリーにルイジアナに戻るようバス代を渡しました。

レッドベリーは、新しい妻を迎えたばかりにも関わらず仕事を失い、あるだけの金で酒を飲むようになってしまいました。さらにレッドベリーはジョン・ローマックスを法的に訴えました。お互いに激しい感情で対立し、関係の修復は絶望的となってしまいました。

1936年、レッドベリーは単独でニューヨークに戻り、仕事を再開すべく奔走しました。レッドベリーは、ハーレムに集まるような娯楽を求めたら聴衆には受けなかった 代わりに、フォークミュージック愛好家が集まるコンサートで聴衆に歓迎されました。自分の居場所を見つけ、仕事も軌道に乗り、友人や知人もできて再々出発を果たすことが出来ました。

かに見えたのですがここがレッドベリー。

1939年、レッドベリーはあっさりと刑務所生活へと戻ってしまいます。流石に見かねたアラン・ローマックスは自ら大学を中退し、レッドベリーに法廷費用を用意する手伝いをしました。

レッドベリー、この時51歳。

息子くらい年の離れた青年、しかもその父親を逆恨みに近い感情で訴えた、ローマックス家の天敵とも言える自分へ向けた慈悲深さに心を入れ換えたレッドベリーは、その後アランとコンビを組み人生で最初で最後の快進撃を見せます。

やばい、書いてて涙が。

まずCBSラジオ番組Back Where I Come Fromへのレギュラー出演が決定。持ち前の実力で全国的に知られる存在となり、フォーク界隈で人気を博していたジョシュ・ホワイト、サニー・テリー&ブロウニー・マギー、ウディ・ガスリー、ピート・シーガーを秒で陥落。後のフォークウェイズレコードの前身である会社に録音を残し、西海岸の雄”キャピトルレコード”で録音。わずか数年の間に、ヨーロッパでもレコードセールスを上げ、ヨーロッパで最初に成功したアメリカのカントリーブルースミュージシャンの名声を得ました。

1940年、遂にアメリカのトップレコード会社”RCAビクター”でのセッションの機会を手にします。アルバム[Midnight special and other prison songs]がビクターレコードからリリースされます。ライナーノーツの走りのようなもので、アランによる豊富なメモや歌の解説が同封されました。

レッドベリーの音楽は正当に評価され、正当な報酬を得て、たくさんの良き友人や理解者、そして連れ添った妻と共にいわゆる”大器晩成型”の代名詞のような晩年を過ごします。

1949年、筋萎縮性側索硬化症、またはルーゲーリック病を発症したレッドベリーは最後のコンサートを行います。前年に他界したジョン・ローマックスとの最初の仕事をした思い出の地”テキサス大学オースティン校”で行われました。

同年12月、61歳で他界。

最後に、Cotton fieldsの主人公。実は刑務所に収監されている男の歌なのではないか、という説を筆者の主観でぶち上げておきたいと思います。

レッドベリーの闇の部分と、そんな男が音楽の力でカムバックしたエピソードについて触れておきたいと思います。ここから先は、レッドベリーとコットンフィールズへ聞き方が180°反転するような感じになりますので、自己責任でご覧ください。

1915年 拳銃を所持していた罪で収監された後、チェインギャング(労働囚人)に耐えられず刑務所から脱獄。

1918年、偽名を使って生活していたが、親戚の男を女性をめぐる争いで殺害。テキサス州シュガーランドのインペリアルファームに投獄。囚人同士との争いに巻き込まれ首を刃物で刺され、ナイフで反撃し致命的な傷を負わせる。

1925年、囚人仲間や看守を音楽で楽しませていたことから、勧められて知事に自由を求めて歌を書く。35年の刑期を7年にすることに成功。

1930年、男性を刃物で刺したことで殺人未遂の罪でルイジアナ州立刑務所に入所。ジョン・ローマックスを利用して州知事を説得、釈放に成功。

1939年、レッドベリーはニューヨークマンハッタンで喧嘩中に男を刺し刑務所へ。

あだ名”Lead Belly”の由来。囚人仲間が強靭過ぎる肉体である説と、 散弾銃で胃を負傷(いわゆる、なんじゃこりゃぁ案件)という説。最後のひとつは、禁酒法時代の密造酒の売人という説。いずれもキナ臭いことこの上ない。

ルイジアナのプランテーションで生まれたレッドベリー。故郷の歌として”コットンフィールズ”が出てくることには何の違和感もありません。それが転じて反戦歌?アーカンソーの風景を称える歌?

だけどこの歌の歌詞が、当時のルイジアナやテキサスの刑務所にいたチェーンギャングにしかわからない”脱獄の手引き”だったら…?密造酒の売人の”合言葉”だったら…?

レッドベリーの人生がそうであったように、時に歌には表面と裏面があります。その歌の裏面である人の”エゴ”は自分の物差しで測ることはできません。そのはかり知れない何かこそが魅力であり、このような歌をジャンルとかレッテルで分けてしまうような粋じゃないことは、するもんじゃねぇなぁと思う次第であります。

以上でCotton fieldsの解説を終わります。孤独のヒュードによるYouTube動画もあったりするのでパパーンとご覧ください。

井上大地

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